ヴォイトレレッスンの日々  

ヴォイトレに関わっている方とブレスヴォイストレーニング研究所のトレーナー、スタッフの毎日をとりあげていきます。

一つの発声を身につける

声楽教師にもいろんなタイプがいます。例えば先生と生徒の仲がよい門下からはあまり成績のよい生徒が出ないという印象があります。逆に言うと、いい成績(コンクール、オーディション等で)を残す生徒が多い門下は教師と生徒の距離が近くもなく遠くもなく、教師がとても厳しいことが多いです。もっと言えば門下生の中でライバル関係があったりします。
例えばシンクロ日本代表の選手たちは井村雅代さんに褒められるために練習に耐えていると言います。何故なら井村さんが認めたものには点数が付きメダルに近づくからです。一つの明確な判断基準が近くにあるというのはとても大きな財産です。
井村さんの教え子達がテレビなどで井村さんのことを話すと、優しいや愛情深いなどの前に「怖い、厳しい」という表現が先にくるのは当然でしょう。井村さん的には「選手と仲が良すぎると厳しいことが言えない」という理由もあるようです。声楽の世界でいうと優秀な生徒が多い門下には、正しい発声の判断基準の核が必ずあります。生徒それぞれに合わせるということではなく、生徒それぞれのいいところを伸ばそうということもあまりなく、たった一つの発声を身につけられるかどうかが基準なことが多いです。そしてそれが対外的にも評価されるというのがわかっているからこそ必死にその技術を磨こうとしているからいい生徒が育つのだと思います。(♭Σ)

長時間のウォーミングアップ

必ず、長時間の自主トレをするという人がいます。とても素晴らしいと感心していました。初めてレッスンをしたときから、なかなか立派な声で、先行きがとても楽しみな人でした。自主トレが長時間というのは、悪いことではないのですが、レッスンを受ける前も、必ず2時間くらいはウォーミングアップを欠かさないという徹底ぶりで、少しがんばり過ぎではと、心配もしました。しかし、レッスンの回数をかさね、いろいろとお話をうかがっているうちに、少し別の事実が浮上してきました。
長時間の自主トレというのはよいのですが、長時間のウォーミングアップというのが少し気にかかり、よくよくたずねてみると、長時間のメニュをこなさないと、いつものよい声が出ないというのです。たしかに、ある程度のウォーミングアップは、よい声を出すために必要ですが、それが必ず長時間というのは、少し不自然です。実際のウォーミングアップのメニュを聞いてみてわかったのは、長時間の実施で、喉や体が疲労し、うまい具合に脱力ができるという、一歩まちがえれば、喉や体を傷めかねない、少し危険なウォーミングアップだったのです。(♭Ξ)

【ほぼ新宿のれん街】

3/17にオープンする「ほぼ新宿のれん街」が、最後の追い込みで連日遅くまで、リフォームを行っています。古民家をずっとみていたので、飲食店になる前との変わりように驚いています。7店舗のオープンまで、まもなくです。[E:virgo]

自分が舞台に立っている裏では。

自分も日々、いろいろな団体さんの公演に出演させていただき、いろいろ感じることがあります。例えば、オペラなど大掛かりなものになればなるほど、裏で働いている人というのはとても重要になってきます。裏で働いている人というのは、道具の搬入・搬出、公演を行うための会場設営、舞台転換の際に道具を運んだり、その道具が正しい位置に準備されているか確認したり、キャストの世話をしたり。大きなプロダクションになれば、この手のプロの会社に委託するのですが、中小規模の団体さんになると、合唱を歌っている人などが、自分が舞台上に出ていない間に様々な準備を行っていることが多いです。自分が出演させていただくとき、やはり、このような人々の労力が目に見えるので、心から感謝するとともに、「しっかり歌い演じなきゃいけない」という気持ちになります。「自分が舞台に立てるのは、その陰でたくさんの人が動いてくださっているからである」という気持ちを忘れずに、これからも歌わせていただきたいと思います。(♭Я)

声と向き合う

日本人は働き過ぎということはよく言われています。私もそう思います。台風直撃の日に仕事の心配や電車の心配をこれだけ多くの人がしているのは日本人くらいかと思ってしまいます。
一般の多くの社会人は自分と向き合う時間を持っている人はどれくらいいるのでしょうか。趣味でも家庭でもいいです。
自分の時間、自分をみつめる時間というのが現代の日本人には少ないです。音楽家は日常から自分の音の訓練は欠かせません。自分の弱点、克服しなければいけない課題と常に向き合っています。自分と向き合う時間が多いです。(だから人付き合いがうまくない人も多いですが)
これはプロのスポーツ選手でも、オリンピック選手でも同じことだと思います。レッスンを受けているとき、自宅やスタジオでトレーニングするとき、自分と向き合える時間だと思って有意義に使ってもらえるといいなと思います。特に歌の場合、うまくいかないと自己否定に走りやすい面もあるので、セルフコントロールが重要です。自分の声や呼吸と仲良くなりましょう。(♭Σ)

背中で動く

地方のビジネスホテルの朝食を食べたときのことです。ウェイターがイタリア人で厨房のイタリア人シェフと、イタリア語で会話をしていました。安いビジネスホテルの、レストランというよりは食堂のような空間で、決してプロのウェイターではないだろうと想像できる彼が、チャラチャラと動き回りながら、少ない宿泊客に朝食を運んでいました。
はじめは、少し残念な気分でしたが、そのうちに彼のチャラチャラとした動きの違和感に、頭がくぎ付けになりました。レストランの入り口を入ってテーブルに着いたときに、横目でとらえた彼の動きは、歓楽街的なチャラチャラだと思ったのですが、落ち着いて観察してみると、日本の街でよく見かける、そういう人たちの動きとは、まったく違うのです。
カタコトの日本語で、朝食を運んできてくれた彼の動きを、頭の中で体感・同調しながら感じてみると、どうやら、背中が中心になって、動き回っているようなのです。それまで、「背中で動く」というフレーズは、バレエダンサーから聞いて、知識としては知っていましたが、日常的な動きの中で背中を使っているというのは、初めて目にする光景でした。それ以来、声を背中で支えるというのも、悪くはないものだと、思うようになりました。(♭Ξ)

ぶれない姿勢

物事に対して、批判的な意見を言う人は、基本的に自分の価値観にあったものしか認めなかったり、批判をすることで自分の地位を保っている人が多いように感じます。真面目な人は、それらを「お客様の意見」として、真摯に受け止めようとするのですが、それらを全て受け止めていたら、自分自身が潰されてしまいます。本当に大事なのは「改善点」を指摘して、提案をしてくれるような人。
文句しか言わないような人は、ただのクレーマーなので、部分的に受け止めつつ、流すところは流すことも必要です。最近、以前にも増して、このタイプの人を、あらゆる場面で見かけるようになりました。自分が提示できないのに、相手の非ばかりを責める。そのような人に負けないでほしい。自分の信念を貫き、核となる部分は変えずに、上達していく方法を常に探究する。この姿勢を大事にしましょう。お客様の意見を全て受け止めていては、商品になりません。自分という商品の強みは何なのか、どのような人がメインターゲットなのか、自分自身をしっかり持ち、ぶれないこと。このような姿勢で取り組むことが大事だと思います。(♭Я) 

万人向けでないところから世界的歌手はでた

黄金のトランペットと言われ、世界で活躍したテノール歌手マリオ・デル・モナコが唯一の師匠と呼ぶのがアルトゥーロ・メロッキという指導者です。メロッキ派やメロッキ式発声と呼ばれる独自の発声理論をもった指導者です。
しかし、ネットや本などでもメロッキ派は「声を壊す」、もしくは「危険」という表現が多く出てきます。
現在でもメロッキ派と呼ばれる発声を学んでいる、もしくは自分の発声はメロッキ式という歌い手の多くは、この発声は正しい、なぜなら「偉大なマリオ・デル・モナコやテバルディもこの発声だから」という冠をつけてこの発声の素晴らしさを訴えます。
とても有名な、あるテノール歌手がまだデビュー前にモナコに声を聴いてもらって、ある助言を受けました。
「マエストロ・メロッキに指導してもらうといい。しかし、全てを鵜呑みにしてはいけないよ」と言われたそうです。彼はその後世界中で活躍するのですが、メロッキ派の人々が看板のように推すモナコもどこかにレッスンの危険な匂いをかぎ取っていたのかもしれません。
実際そのテノールはメロッキのレッスンで「声帯がちぎれるかと思った」と自伝に書いています。しかし短い期間で声が劇的に改善され、デビューしていったと言うのですからメロッキの指導そのものは大変な効果があるのだと思います。
しかし、声帯がちぎれるという感想から考えるにかなり喉への負担が強いレッスンなのでしょうから万人向けではないのかもしれません。万人向けでないとこらから世界的な歌手がでるのですから教える側も受ける側も難しい問題です。(♭Σ)

「骨は、よこよこ。」

「骨は、よこよこ。」このフレーズを耳にすると、一部の声楽家は、にんまりとします。たぶん15年ほど前なら、多くの声楽家が顔をほころばせたでしょう。あるいは、憤慨する人もいたかもしれません。ある高名な、とてもビッグな日本人オペラ歌手のエピソードだからです。そのかたは、まだご存命ですが、たぶん未だに彼の声量を超える日本人オペラ歌手は、ほとんどいないのではないでしょうか。そんな方だからこそ、いろいろなエピソードが都市伝説のように語り継がれているのですが、これはその中の一つです。「城ヶ島の雨」という日本歌曲の中の歌詞に(曲は私の思い込みで、違う曲かもしれません。)、「船は、ゆくゆく(行く行く)」というフレーズが出てくるのですが、その方が歌うと、「骨は、よこよこ(横々)」にしか聞こえないというジョークです。誇張し過ぎだろうと思われるかもしれませんが、曲の歌詞を全く知らずに、その大先生が歌うのを聞くと、多くの方が「骨は、よこよこ。」に聞こえるはずです。「ふ」は限りなく「ほ」に近く、「ゆ」は限りなく「よ」に近く発音されているからです。なぜそうなってしまっているかというと、実は日本語の「う」は、外国人には「ゆ」に聞こえるほど、口の中が狭いからなのです。ですから、イタリア語などで「ウ」を発音するときに、日本語のように「う」と発音すると、外国人の先生に「発音が違う」と注意され、「お」のように口の中を開ける癖がしっかりしみついているのです。日本語の歌詞を歌うときも、それを緩和できず、このようなことになっているのです。
(♭Ξ)